「異郷にて Op.39-1」

一方シューマンですが、詩の理解がとても難しい!アイヒェンドルフによる詩を訳すとこんな感じ。
「赤い稲光の後ろの故郷から、雲がこちらへやって来る。しかし父と母は随分前に死んでしまった、そこでは私を知る人はもはや誰もいない。静寂の時が来るのはなんと早いことだろう。そこで私もやすらう。すると私の上で美しい森の孤独がざわめく。そしてここで私を知る人はもはやいない。」
故郷から離れたところにいる男が故郷の方角を眺めながら故郷を想っているものの、そこでは父や母はおろか誰も自分を知る人はいない。というところまでは誰でも同じ解釈をすると思うのですが、その先の「静寂の時が来るのは」の「静寂の時」とは何なのかを色々解釈できるのです。
まず一つの解釈として「静寂の時」とは「自分を知る人が誰もいなくなる時」だという解釈。そうするとその先の「そこで私もやすらう」は、「孤独」を寂しいばかりか喜びにも思うような、孤独に浸る独りの男性の姿の表現だと解釈できます(その前に私は「私もやすらう」ではなくて「私はやすらいもする」という訳の方がしっくり来ると思うのですがこう訳していいのかまで独語が解るわけではないのでなんとも言えません)。そして森のざわめきだけが男性の孤独への美意識に共感して美しくざわめくのではないかと。
もう一つの解釈は、「静寂の時」とは「自らの死」という解釈。そうすると、まもなく自分も父母と同じように死んで行くだろう、そして死をもってやすらぐのだ、森のざわめきは死を見守るだろう、という理解できます。
この詩にシューマンがつけた曲は聞き流しそうなくらい淡々としているけれども、やすらう時と後奏だけに見せる長調が効果的というか印象的。でもまもなく死を迎える男の曲のようには聴こえないなあ、、ということで私は一番目の解釈で孤独に浸る男性を考えて歌うことにしました。この曲はいかに落ち着いて安定して歌えるかが問われるのだと思います。後半にとても長いフレーズがあって今の私は息継ぎ無しにはとても歌えませんが、フィッシャー=ディスカウの録音を聴くと泣くほど息が長くて自分のふがいなさに凹みます。息の長さは歌の上手さに比例するとおっしゃっる先生もいらしたくらいですから息の短さも克服して行かないといけませんね。

今回は、声をはりあげようとしたりだとか変な事はしないで、心を落ち着けて詩を感じながら、ただただ安定して歌えればいいなと思っています。本番は明後日です。